2011年11月20日日曜日

電子書籍は安い?

Amazon Kindleの日本語版が年内登場とか言っている。日本でも書店や出版社などが独自に電子書籍を出していたが、各社ばらばらで足並みが揃っていないようで、私は買い控えていた。Kindle DXですでに英語版を利用している身としては、今回のAmazonの発表は非常に嬉しい。もっとも、私のKindle DXで日本語書籍が読めるのかという心配はある。400ドルもしたのに…。

よく、電子書籍の値段はいくらが適当かという話題を見かける。書店や出版社も、適正な価格付けに困っているのかもしれない。消費者にとっては、中間に書店や卸業者が入らない分、電子書籍は紙の書籍に比べるとコストが安いように思える。したがって、当然、電子書籍の値段は紙の書籍より安くしろということになる。実際、Amazon.comのKindle書籍は、紙の書籍に比べて圧倒的に安い。

しかし、ちょっと待ってほしい。モノの値段というのは、はじめに利益ありきで決まるものではない。物の値段は、「消費者がいくらなら買うか」によって決まるものではないのか? 消費者が1万円出してでもほしいと思うものなら、たとえ原価が100円であっても1万円で売っていいはずだ。だから、いったん中間の書店や卸業者のことは忘れて、いくらなら電子書籍を買うか考えてみよう。

私が英語版Kindleを使っていて、これは便利だと感じた機能はざっと以下のようなものだ:

  1. (当然ながら)普通に読書できる
  2. ブックマークできる
  3. ノートをかける
  4. わざわざブックマークしなくても直前にどこを読んでいたか記憶しており、次に端末を起動したとき、そのページを開いてくれる
  5. Kindle端末以外にも、PC、Webブラウザ、スマートフォンなどで読める
  6. 上記端末等で、書籍、ブックマーク、ノート、直前に読んだページを同期できる
  7. 検索ができる
  8. 1000ページを超えるような技術書でも楽に持ち歩くことができる
  9. 保管に場所をとらない
  10. 誤植等があった場合、本のアップデートができる
さて、以上のような機能を備えたKindle端末(単なる端末というよりは、Amazonのサーバを含めたKindleシステム?)があったとして(初期投資としてこれは買わなければならない)、その上で読める電子書籍は紙の書籍より高いだろうか、安いだろうか? 紙の書籍と比較してみよう。

まず、1についてだが、これは紙の書籍でも可能だ。媒体が何であろうともコンテンツは同じはずだからだ。また、2と3も、従来から紙の書籍で我々がやってきたことだ。ノートを取るときに本に直接書きこむのが嫌な人は、ポストイットを使うとよい。4はブックマークで代用できる。

では、5と6はどうか? 私のKindle DXは9.7インチある。重量もそこそこで、通勤電車でつり革に掴まって読書するには大きすぎる。そこで、私は電車内ではスマートフォンで読んでいる。会社に着けばPCがあるので、PC版を使うことができる。そして、素晴らしいことに、これらはすべて同期されているのである。実際、私は、通勤時にKindleで読書をするのに、ポケットにスマートフォンを入れているだけでKindle端末や、それを入れるかばんは持ち歩かない。

これが紙の書籍だったらどうか? 文庫や新書であれば電車の中でも読むことはできる。しかし、分厚い技術書の場合、つり革に掴まったまま読むのは難しいだろう。もちろん、紙の本は会社でも読むことができるが、家で続きを読みたいのなら、持って帰らなければならない。そして、本を持ち運ぶためにはかばんが必要だ。したがって、紙の本は電子書籍より不便そうだ。

次に7だ。検索といえば、ディジタルのお家芸である。もちろんKindleでも可能であるが、全文検索しているのか、それとも事前に決めてあるキーワードのみ検索しているのかはちょっとわからない。もっとも、全文検索したとして、どれだけ意味のある結果が得られるかは疑わしいが。

一方、紙の書籍の方は、後ろに付いている索引が検索に相当するだろう。索引は、ご存知の通り、事前に決めてあるキーワードのみが記されている。ただし、最近の本はそうでもないようだが、稀に、索引に記されているキーワードの少ない、あるいはそもそも索引自体のない書籍が存在する。技術書でこれをやられると非常に困る。というわけで、検索についても、電子書籍に歩があると言っていいだろう。

次に、8と9である。これは、言うまでもなく電子書籍の勝利だろう。技術書や技術系の教科書は分厚いものが多い。特に洋書はそうである。アメリカの学生などは、あんなに分厚い教科書を毎日学校まで持っていくのだろうか? そして、分厚いということは、当然保管場所に困るということなのだ。その点、電子書籍であれば保管場所はまったく問題にならない。そもそも、データをローカルに保管する必要すらない。Kindleの場合だと、ノートやブックマークも含めて、すべてAmazonのサーバ上に管理されている。

最後に、10だ。誤植などは本にはつきものである。これは、紙だろうと電子だろうと変わらない。紙の場合は、誤植があった場合、正誤表をWebサイトなどで公開することになる。この正誤表の問題点は、公開されたことがわからないことだ。何となく出版社のサイトを見ていて正誤表に気づくことがある。

一方、電子書籍であれば、アップデートをネット経由で配布すればよい。誤植が発見された時点で、逐次配布することができる。実際、私の持っているKindle書籍の1冊は、端末付属の3G回線を介してアップデートされた。事前にアップデートに関するメールもきたし、大変満足している。したがって、この点も電子書籍のほうが便利だ。

さて、こうして電子書籍と紙の書籍を比べてみると、電子書籍のほうが消費者にメリットがありそうだ。もちろん、紙の書籍にも良い点があるということは私も認識している。例えば、芸術的な装幀や、芸術的な装幀や…うーん…そうだ、乱暴な扱いにも強い!

だが、一般的な読書であれば、少なくとも私は電子書籍を好むだろう。だから、私は電子書籍を安くしろとは言わない。紙の書籍と同じか、あるいはちょっと高くても電子書籍を選ぶ。実際、電子書籍には、サーバの運用や、原価より低く設定された端末本体の値段(カミソリ本体とカミソリの刃の話と同じだ)など、紙の書籍にはなかったコストもかかっているのだ。

電子書籍の値段を考えるとき、これらのメリットを中心に考えれば、自ずと適当な値段がわかるだろう(上記のように、私の答えは、紙と同等かちょっと高くてもよい)。書店や出版社の立場で考えると、電子書籍でできることを更に増やせば、これはつまりサービスを充実させることであるから、値段を上げてもよいだろう。

もう何十年も前から、これからは電子書籍の時代だと言われてきたが、ようやくその時代がやってきた。電子書籍を中心に、本のあり方というのも変わってくるのかもしれない。なお、出版社や書店が、どうしても電子書籍を紙の書籍より安くするというのなら、私はもちろん大歓迎である。

2011年11月14日月曜日

いかに作るか、何を作るか

今日は朝から、Twitterで、SIerがどうのこうのというツイートが流れている。あるあるネタで、Excelでバージョン管理とか、私も大いにあるあるである。何だかSIerが皆に嫌われているようにも見えるが、SIerが好きで頑張っている人もたくさんいるはず。一部の人が、こうして自虐ネタをやっているのだろう。

彼らが自虐ネタに走るのは、SIerが彼らの思い描いていたエンジニアリングの世界とは異なるからではないだろうか? つまり、彼らはSIerが自分に「合ってない」と感じている。実は、私もその口だ。では、エンジニアリングの世界に何が起きているのだろうか?

少なくとも、日本の大学の情報工学や計算機科学の学科で教えているエンジニアリングは、SIerがエンジニアリングと称しているものとは全く違う。大学では、エンジニアリングとはコードを書くことだ。一方、SIerでは、エンジニアリングとは書類(主に仕様書)を書くことを指す。大学では、エンジニアリングの道具はエディタとコンパイラだが、SIerではWordとExcelが道具だ(優秀なSIerはMicrosoft Projectも使う)。

大学で教えていることとSIerでやっていることの違いは、エンジニアリングに対するアプローチの違いである。すなわち、「いかに作るか」と「何を作るか」の違いである。私が学生時代、ソフトウェア工学の世界ではパターンがはやっていた。私も授業でデザインパターンを習ったが、これはまさに「いかに作るか」のレシピである。一方、私が会社に入って上司に教えられた「顧客の要求を云々」とは、「何を作るか」を考えるということだ。

「いかに作るか」と「何を作るか」の境界は曖昧だ。おそらく、単純なものほどこの境界が曖昧になり、複雑なものほど境界がはっきりしてくるのではないか。例えば、ハサミを作るとして、「いかに作るか」と「何を作るか」という視点はほとんど同じものを指す。しかし、スペースシャトルを作るとなれば、これらの境界はかなりはっきりするだろう。

実は、この「何を作るか」「いかに作るか」という着想は、私が考えたものではない。JAISTの日比野先生の言葉である。私は、LispマシンELISの設計者でもある先生と知り合う機会を得た。あるイベントの打ち上げの時、先生はこのような趣旨のことを仰った。「これまでの日本はアメリカのモノマネであった。アメリカ製品をお手本に、それを『いかに作るか』を考えればよかった。しかし、日本が経済の先頭に立った今、これからは『何を作るか』を考えなければならない」と。

高度成長を通して、日本のエンジニアは、アメリカをお手本とすることで、「何を作るか」をほとんど考えずに済んだ。すべてのリソースを「いかに作るか」に集中することができた。かつて、日本の電機メーカーもIBMの互換機で荒稼ぎした時代があったが、それは単に当時の日本の労働力が安かっただけではなく、「何を作るか」はアメリカに考えてもらうという「ズル」をしていたのだろう。

我々日本人にとってのエンジニア像は、今もなお、「いかに作るか」を考えるエンジニアなのだろう。だから、多くの若者がSIerを目指し、そして失望する。これは、学校教育が開発の現場に追いついていないといってもいいのかもしれない。

現代のコンピュータシステムが解かなければならない問題は複雑だ。したがって、「何を作るか」という視点が欠かせない。日本の多くのSIerがやっている仕事がこれだ。SIerに就職するということは、残念ながら、住み慣れたコードの世界を離れ、Excel方眼紙の世界で生きていくということを意味する。

しかし、エンジニアリングの醍醐味は、やっぱり「いかに作るか」を考えることだと考える人もいるだろう。私もその一人だ。そういう人達はどうすればいいのだろうか? 答えは、かつての日本企業と同じように、「ズル」をすることだ。すなわち、誰かが「何を作るか」を定義してくれた問題を解くのだ。ただし、普通に解いてはダメだ。ずっとうまく解かなければならない。

Googleを考えてみれば良い。Googleの創業時、彼らの商品は検索エンジンだけだった。彼らは「検索エンジンとは何か」とは考えなかった。彼らが成功したのは、検索エンジンを「いかに作るか」を考えたからだった。そして、彼らは検索エンジンという問題を、ほかの誰よりもずっとうまく解いた。

私は「何を作るか」よりも「いかに作るか」に興味のある人間だが、SIerの仕事には敬意を払っている。彼らが「何を作るか」を定義してくれなければ、「いかに作るか」を考えることはできない。また、日比野先生の仰る通りなら、「何を作るか」を考えるSIerは、これからの日本の成長産業である(もちろん、大失敗する産業かもしれない)。

SIerが云々という話題が聞かれるようになったということは、多くの人が「いかに作るか」と「何を作るか」の違いに気づき始めたということだろう。違いがわかったということは、次にとるべきアクションも、じきに明らかになるのではないか。いかにもSIerというような大企業がやっているようなことと、スタートアップがやっていることを比べてみるとヒントがあるかもしれない。私も含め、多くのエンジニアが幸せな人生を送れるようになるとよい。