2012年2月26日日曜日

タクシードライバー

先日、飲み過ぎて上野で終電を逃したことがあった。仕方がないので、上野から亀有までタクシーで帰った。4000円ほどだった。普段、私はあまりタクシーに乗ることがないのだが、そのとき私の乗ったタクシーには、後部座席に小さな液晶モニタが設置されていた。色々な広告が流れていた。

そこで流れていた広告で知ったのだが、今都内のタクシー会社数社で、タクシーを呼ぶためのスマートフォンアプリを作っているらし。広告によると、スマートフォンに内蔵されたGPSの位置情報を用いることで、今までのように電話で呼ぶのに比べ、よりよい配車が可能になるとのことだった。

私の父はタクシードライバーだった。かつて、タクシードライバーとえば、一種の自由業であった。父や父の友人は、9時から5時まで会社に縛られるのが嫌でタクシードライバーになったのであった。自分の気の向くままに車を走らせることができるし、疲れたときは橋の下で休憩することができた。お客を乗せることさえできれば、何をするのもドライバーの自由だった。

父は働くのが嫌いだった。お酒は飲む方ではなかったが、よく、友人たちと麻雀をやっていた。パチンコも好きだった。私も、小学校へ上がる前から、よくパチンコ屋へ連れていかれた。景品のお菓子をもらえるのが楽しみだった。

父は不まじめなドライバーであったが、そんな父でも家族を養うことができたのは、これはもちろん母の多大なる苦労があったわけだが、父がタクシードライバーとして必要なスキルを持っていたからであった。

タクシードライバーは、第1に、道を知らなければならない。第2に、交通情報を知らなければならない。道を知っているだけでは不十分だ。お客を運ぶというのは、地図を見て最短距離を走ればいいというものではない。時間帯によって、道の混雑具合は変わる。どこかで道路工事が行われているかも知れない。

第3に、お客について知らなければならない。地域によっては流しのタクシーが禁止されているところもあるが、「本物の」タクシードライバーは流しの客で稼ぐ。空港や駅で客待ちするのは素人だ。お客がちょうどタクシーに乗りたいと思ったときにタイミングよく現れるのが、プロのタクシードライバーである。

父の時代には、タクシーという産業はドライバー個人のスキルに大きく依存していた。タクシードライバーとは、職人的職業であった。タクシー無線は存在したが、個々のドライバーは組織化されているとは言えなかった。実際、組織に属さない個人タクシーはかなりの売上をあげていた。売上を独り占めできるからだ。意欲のあるドライバーは、個人タクシーをやりたがった(父はやりたがらなかった)。

ところが、2000年くらいから様子が変わってきた。カーナビとGPSの導入である。カーナビが80年代から存在したことを考えると、2000年というのはちょっと遅い気もする。しかしこれは、あらゆる職人に共通する気質で説明できる。産業革命当時、ヨーロッパの職人たちは機械を破壊する運動を行った。現代のタクシードライバーにとって、カーナビの存在は、交通のプロである彼らのプライドを傷つけるものだったのかも知れない(ちなみに、タクシーへのAT車の導入も遅かった)。

ともあれ、タクシーに革命が起きた。職人的ドライバーの時代は終わり、カーナビとGPSによる配車システムの時代がやってきた。どんなに優秀であっても、橋の下でサボるドライバーは必要とされなくなった。

小泉政権下でタクシーの自由化が行われた際、多くの若いドライバーがタクシー業界に入ってきたそうだ。彼らがタクシーに入ってこれたのも、この新しい配車システムのおかげである。新しいドライバーには、かつてのようなスキルは必要とされない。必要なのは、安全運転とサービス精神だ。

技術者としての私は、このような技術によるイノベーションを歓迎する。昨日よりよい明日を手に入れた。これこそ技術の目指すものである。件のスマートフォンアプリは、さらに良い明日をもたらすだろう。

一方で、父の気質を受け継ぐ者として、なんとなく寂しい感じもする。今のタクシーに父の居場所はない。父はもう亡くなったが、今父のような人間がいたとして、つまり私のことだが、どのような職業に就けばよいのだろうか? 誰だって、ときには橋の下でサボりたいのではないのではないか?

私が上野で乗ったタクシーの運転手は、年配の男性だった。父と同じ時代を生きたのではないかと思う。彼も、かつては職人的スキルで稼いだのかも知れない。車には、もちろんカーナビが搭載されていたし、ギアはATで、後部座席には液晶モニタまであった。もはや、かつてのスキルは必要ない。

時代が変われば、働くものに要求されるものも変わってくる。当然である。それを寂しく感じてしまうのは、単に変化に追従できていないのかも知れない。もちろん、昔にもよいところはあったろう。しかし、我々はよりよい明日を選んだのではなかったのか。

父の時代は終わった。今は私の時代である。父の時代は父の時代として、懐かしむことはあっても、寂しく思う必要はない。私は技術者として、昨日よりよい明日のため、新たなる技術に挑戦するのみである。ちなみに、そんな私は、awkとsedでシェルスクリプトを書いている。

2012年2月8日水曜日

タンメンのうまい店

転職に伴い、藤沢から亀有に引っ越してきた。そろそろ2週間半が経つ。ようやく、亀有にも慣れてきたので、最近はタンメンのうまい店を探している。

藤沢には「千里」という中華料理屋があって、そこのタンメンがなかなか美味しかった。藤沢駅前のダイヤモンドビルの横の道を曲がったところにある。大船にもあるらしいが、そこは行ったことはない。

私は中華料理にはまったく詳しくないのだが、ラーメンの中でも、タンメンは味付けが難しい方なのではないかと思う。塩ラーメンに茹でた野菜を乗っけただけだと思ったら大間違いだ。

タンメンの味付けのポイントは、スープの塩分だと思っている。普通のラーメンは麺が主体であるから、麺と一緒に食べてちょうどよい塩加減にすればよい。ところが、タンメンの場合、野菜と麺があるので、どちらにとってもちょうどよい塩加減というものを追求しなければならない。これが難しい。

野菜にあわせてしまうと、麺を食べたときに塩分が強すぎる。逆に、麺にあわせてしまうと、野菜を食べたときになんだか水っぽい。藤沢の千里のタンメンは、このあたりが絶妙であった。

店によっては、野菜を軽く炒めて味をつけてから麺に乗っけるところもある。しかし、これだと、どうしても炒める時に使った油がスープに浮かんでしまう。私としては、タンメンはあっさりしていたほうが好みなのだ。

亀有駅前に、チェーン店の「日高屋」がある。値段も安くて遅くまで開いているので非常に便利なのだが、ここのタンメンは非常に塩分が強い。野菜を食べるのにはいいのかもしれないが、正直私の口には合わなかった。

今日は、駅前のイトーヨーカドーのそばにある「和」という中華料理屋に行ってきた。「和」というとなんだか日本料理屋みたいだが、これは「かず」と読むらしい。早速タンメンを食べてきたわけだが、野菜と一緒に食べるにはちょっと塩分が足りない印象を受けた。しかし、スープ自体は美味しくて、日高屋よりはこちらのほうが好みだ。

やっぱり千里のタンメンはやっぱり偉大である。亀有でタンメンのうまい店があったら教えてほしい。

2012年2月5日日曜日

ランチの話題は?

2月からミラクル・リナックスで働いている。まだ3日しか働いていない。この3日間は、ほとんど研修だった。来週から、本格的に業務に入るのだと思う。実は、入社して早速、非常に困難な事態に陥っている。それは、エンジニアリング上の問題ではない。ヒューマン・リレーションズに関わる問題だ。すなわち、ランチの話題である。

前職では、この問題は簡単だった。山奥の工場だったので、周りにランチをとるような店はなく、会社の手配する弁当を食べていた。また、省エネのためと称して、昼休み開始から15分ほどで消灯された。したがって、電気のついている15分間で弁当を黙々と掻き込み、午後の業務が始まるのを自席で静かに待つ(大抵の人は寝る)のである。

ミラクルでは事情が異なる。ミラクルでは、ランチとは、各自が自由に食べるものだ。弁当を持ってくる人もいれば、コンビニに買いに行く人もいる。近くのお店に食べに行く人もいる。ありがたいことに、私も、近くへ食べに行くグループに入れてもらっている。

ここで、驚くべきことに、ミラクルの人たちは話をしながらランチを食べるのである。難しい話題ではない。どこの回転寿司がおいしいとか、そういったことだ。しかし、黙々と掻き込む事に慣れている私には、これが難しい。私にとっては、「話す」か「食べる」かのいずれかであって、「話しながら食べる」は無いのだ。

さらに、困難極まるのが、このときの話題である。何を話していいのかわからない。昼休みに仕事の話を持ち出すのは、なんだか野暮ったい。じゃあ、他に何を話すかというと、とくに思いつかない。その結果、はじめは他の人の話題に相槌を打っていたつもりが、いつの間にか黙々と掻き込んでいる。そして、私だけ早く食べ終わってしまう。

外にランチを食べに行くなど、夢にまで見たサラリーマン生活だ。ミラクルでは、ランチのメニューまで会社に支配されることはないし、食べてる途中に消灯されることもない。しかし、あらゆる自由には責任が伴う。ランチの自由には、適切な話題を選択する責任が伴う。

世のサラリーマンは、この困難をどうやって乗り越えたのだろう? アドバイス求む。

2012年2月1日水曜日

三菱を去る日

1月いっぱいで三菱電機を退職した。新卒で入社してから、この4月で丸6年になるところだった。実は、退職にあたってのエントリを、同じタイトルで前々から用意していた。三菱の官僚主義に辟易していた私は、三菱のやり方について、そのエントリでこき下ろす予定だった。だが、気が変わった。

最後の出勤が終わったあと、6年間住んだ独身寮へ行った。部屋の鍵を返すためだ。まだ部屋に置いたままになっていたゴミを処分し、掃除機をかけた。そして、鍵を返すために管理人室へ行った。管理人さんは、なぜかいつも私をフルネームで呼ぶ。私は鍵を返し、簡単にお礼を述べた。管理人さんも何か言った。

瞬間、私は、目から涙が出そうになっていることに気づいた。私は慌てて管理人室をあとにし、駅へと向かった。管理人さんが何を言ったのか、正確には覚えていない。しかし、励ましの言葉だったのは確かだ。

管理人さんのその言葉は、私の頭脳で解釈される前に、私の心の中の大きく膨らんだ風船を突き刺してしまった。風船は弾け、中の物が溢れ出し、私はうかつにも涙を浮かべてしまった。風船の中身は何だったのか?

退職当日というのは意外と忙しい。あれやこれやの手続きに、机周りの整理。それが終わったら、お世話になった人への挨拶だ。しかし、上に書いたように、私は三菱が嫌で辞めるのであるから、特に誰かに挨拶して回ろうとは思っていなかった。親しい友人には事前に退職を知らせてあったし、同期入社の仲間たちにはメールで知らせた。手続きや机の整理は午前中でほとんど終わってしまったので、午後は缶ジュースなど飲みつつのんびり過ごした。

定時になって、課の人たちの前で挨拶をした。挨拶が終われば帰っていいわけだが、持ち帰らなければならない荷物が多かったので、フロアの友人にあげてしまおうと思った。形見分けというわけだ。そこで、私は「形見」を持ってフロアを歩きまわった。

フロアを見渡すと、色々な人たちの顔があった。私は、その中の実に多くの人と、この6年の間に一緒に仕事をしてきたことに気づいた。一緒にデスマーチを乗り越えた人もいたし、一緒にお酒を飲んだことがあるだけの人もいた。挨拶回りなどしないと決めていたはずなのに、私は彼らに声をかけた。彼らは気持よく送り出してくれた。

私の三菱電機での6年間は、常に不幸だった。デスマーチも経験したし、体調を崩したこともあった。そもそも、担当する仕事が退屈極まりなかった。しかし、ひとつだけ素晴らしいことに、私がどんなに苦しい時でも、私のそばには常に誰かがついていてくれた。私はひとりで置いておかれることはなかった。疎外されることもなかった。

これが風船の中身だった。駅へと向かう道で、このことに気づいた。私は、薄暗い路地へ駆け込み、静かに涙を流した。私は、再び駅へと歩き出した。途中のコンビニでコーヒーを買おうと思った。寮の近くの、馴染みのコンビニだった。コンビニの外に、大きな黒い犬がつながれていた。飼い主は買い物中なのだろう。私は、その犬の頭を撫で、ようやく落ち着きを取り戻した。

私は三菱の官僚主義を嫌った。これを書いている今も嫌いだし、そういうやり方は私には合わないと思う。しかし、私が見逃していたことに、その官僚主義の中にいる人々は皆善人だった。もしかすると、彼らも官僚主義を嫌っているかも知れない。さらに、官僚主義と日々戦っているのかも知れない。

彼らは残り、私は去った。何だか、私だけがさっさと逃げ出してしまったような気もする。退職を後悔しているわけではない。だが、すごく不思議な気持ちだ。彼らのためにも、というのは変な表現だが、次の職場ではがんばろうと思う。

ありがとう、三菱電機。この6年間は本当は幸せだったのだ。素晴らしい人達と過ごせたのだから。